温泉旅行 - 5 | Amorous[アマラス] - 官能小説投稿

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作者:管理人

587 名前:70 ◆DyYEhjFjFU   sage 投稿日:04/10/03(日) 01:25:15
東京駅に戻ったときには日付が変わろうとしていた。
終電にはまだちょっとだけ余裕があったけど
ぼくらは道草しないで乗り換えホームを目指した。
ひどく寒くて寒すぎて笑ってしまいそうなほど寒かった。
体ががたがた震え、治まったと思うとまた震える。
寒くて麻痺してた皮膚にまともな触感が戻ってきたと思ったら
今度は鋭敏すぎるほどで、彼女が絡めてくる指先が直接神経を刺激するみたいに
ぴりぴり反応した。痛いほどだ。
ホテルに戻ったのが午前1時。
体に力が入りにくく、おかしいなと思いつつフロントのソファに押しを下ろし
コーヒーを注文して部屋に届けてもらうよう頼みエレベータに乗りこんだのが1時30分。
体が高熱を発して、とうとう倒れるようにベッドへ崩れ落ちたのがきっかり午前2時だった。
慌てたのが彼女だった。
どう見たって尋常じゃないぼくの赤くなった顔に驚き
額に手をあてて騒ぎはじめ、どこかへ消えたと思ったら解熱剤と風邪薬を持って戻ってきた。
ホテルの常備薬かな、とぼんやり考えながら飲む振りだけしてゴミ箱に捨てた。
いったん発症した風邪を押さえこむ特効薬なんてない。飲むだけ無駄だ。
それにぼくは薬が大嫌いなんだ。
彼女はぼくを厄介事に巻きこんだと、ひどく後悔していた。
こんな冷えこんだ夜に横須賀の闇の中へぼくを連れ出したと、本気で思いこんでいた。
それはぼくが言いだしたことなんだ。
君じゃなくて、ぼくが連れ出したんだ。
ぼくが君を泣かせてしまった。
もしかすると姫様に会った最初の晩に、ぼくは風邪ウイルスに感染していたのかもしれない。
電車のつり革かもしれないし、会社の同僚のくしゃみを知らずに吸いこんだのかもしれない。
ひっそりと潜伏して、たまたま今夜発熱したんだよ。
ぼくはゆっくりとそう話して聞かせた。
子供を相手に話す口調で優しくいい聞かせた。
でも彼女はまったく聞き入れようとはしなかった。
あの神社の境内があまりに寒すぎたために、ぼくが風邪を引いた。
そう、まるで賽銭クジでも買ったみたいに、ぼくが風邪を引き当てたと本気で信じていた。
ぼくは眠った。
自分の意志とは関係なく、突然ひどい眠気に襲われて意識を失った。
それでも深夜に何度か目が覚め、人の気配を感じ、そしてまた眠る。
そんなことを何度も繰りかえした気がする。
傍らのすごく近い位置に姫様のかすかな匂い。
あの甘ったるい香り。
女のやわらかな体温。
姫様がぼくの手を握ってくれている。
このまま死んじゃってもいいや。
こんなに平穏で静かで安堵できる暗がりに包まれて逝けるなら、それでもいいや、と思った。





588 名前:70 ◆DyYEhjFjFU   sage 投稿日:04/10/03(日) 01:27:27
ぼくは夢を見た。
横須賀駅前の直線コース。
街頭の灯っていない暗闇の中をすさまじい勢いで滑空する。
タクで移動した道順をトレースして、ぼくはあの公園、神社境内に至る。
そこにあるのはあの夏の日。
ぼくの知らない夕方。
子供達の笑顔の群れと高揚した声と騒がしい足音。
その先に白い服の少女がいて、ぼくをじっと見つめていた。
いや、ぼくを通過してぼくの背後にある何かを見つめていた。
ときどき蝉の声が聞こえた。
テレビから漏れてくるようにその音は鮮明で、ありえないほど近い。
ぼくは蝉の位置を探る。
少女が目の前にいる。
少女の手に握られたもの。
中国製の三十八口径。
首にはピンクのクマのぬいぐるみと、菊の紋章が刻印された赤いパスポートが下がっている。
少女はぼくが見つめていることに気づいていないようだった。
素足で立ち、指先は泥だらけで、その指で鼻の頭を触ったために
鼻の頭まで泥で汚れている。
その指先が三十八口径の遊底にも触れる。
遊低には遊びがあり、それが可動することがわかると
指先はかちゃかちゃと音のする重たい金属を引っ張ろうとムキになる。
リコイルスプリングが、少女の指の動きに逆らって遊低を押し戻そうとした瞬間
三十八口径は少女の手のひらで踊り
乾いたパンという音をたてて地面に落下する。
一瞬のできごと。
たっぷりと汗をかいて目覚めるぼく。
目の前にホテルの部屋の天井があり
驚いた姫様がベッド脇から立ち上がってぼくを覗きこむ。
彼女はなにか言っていた。でもよく聞き取れない。
外はまだ暗い。
何時くらいなんだろう。
そんなことをぼんやり考えていると、姫様がボカリスエットのペットボトルを口に運んでくれた。
ありがとう、も言えないままぼくはまた眠りへと落ちる。
ひどくつらかった。
風邪の熱も、いま見た夢も。
遠いどこかからバッハの無伴奏チェロソナタが聞こえてきた。
姫様がヘッドフォンつけてくれたのかな。ぼくのために。
音楽には傷を癒す力がある。
ぼくはそう信じて疑わないタイプだけど、
彼女がしっかり握っていてくれる手のひらの触感には、とうてい及ばない気がした。





618 名前:70 ◆DyYEhjFjFU   sage 投稿日:04/10/03(日) 16:34:16
6日目の朝。遅い時間。
姫様に揺り起こされて目覚めた。
最後の日だっていうのに、体がさっぱりいうことを聞いてくれなかった。
熱はいくらか治まってたけど眠くてしかたなかった。
彼女がコンビニで買ってきてくれたスープとパンを時間をかけて食べ
お礼を言って、彼女にはもう帰るよう勧めた。
楽しかった新年の数日。もう充分だ。
これ以上引きとめても可哀想だし。
午後も眠って過ごしてしまうだろうし。
彼女は何も言わなかった。
ぼくの手からパンの包みをとって捨ててくれ、
飲みきれなかったスープを引き受けてくれた。
それから彼女は裸になってベッドへ滑るように潜りこんできた。
ひんやりとした彼女の肌。
シーツの衣擦れの音。
長い髪が、かわいいおっぱいに垂れてふんわり揺れる。
寝てないから、寝る。と彼女は言った。
午後から雨が降りはじめた。
ホテルの部屋はもの音ひとつなくて
午後の美術室みたいな冷たい静けさがあった。
サイドテーブルの上の時計の振り子が
モーターの入ったガラスドームのなかでくるくる回転している。
午後1時を過ぎた頃に、彼女の寝息を聞いた。
ぼくの記憶はそこで途切れていた。
後に残ったのは浅い眠りの中で見た夢。
いまとなってはどうでもいい、アジアのどこかの街並みと
一枚のフロッピィディスク。




619 名前:70 ◆DyYEhjFjFU   sage 投稿日:04/10/03(日) 16:35:37
暗い部屋の中でまた目覚めたとき
彼女はもういなかった。
クロゼットからも、バスルームからも
彼女がここにいた痕跡すらすべて消え失せていた。
シンクの回りにまき散らされた化粧品も
ベッド脇にあった紙袋の山も
一切合切が突然この部屋から切り取られて魔法のように消失した。
電源が投入されて待機画面になったままのノートPC。
サイドテーブルにあった一枚のメモ。
ぼくはふらつきながら、トイレへ立ち、そのあとで
冷蔵庫からペリエを取りだしてがぶ飲みした。
焦って飲んだせいで鼻に逆流して、止まらない咳になった。
日が落ちてから熱が体の内側から再び沸き起こり
燃えるように熱かった。
体がひどくだるく、鉄みたいに重く、関節がぎしぎしときしむようだった。
ライトのボリュームに手を伸ばしてなんとかねじることができた。
メモにに残された筆跡は達筆で、こう書かれていた。

 また熱が出るのかな。
 ちょっと心配です。
 だからクマを置いていきます。
 クマがヒロを見張っています。
 このクマはわたしの命より大切です。
 だからまたわたしに電話して
 必ずわたしのバッグに戻してください。
 
 p.s.
 ヒロの大切なお友達に連絡しておきました。
 遅くならない時間に迎えにきてくれるはずです。
 それまでベッドを出ないように。
 おっけい?わかった?

 恵子




620 名前:70 ◆DyYEhjFjFU   sage 投稿日:04/10/03(日) 16:37:36
姫様はアドリブがきく。
彼女のあどけない仕草とか
細くて色っぽい声とか
綺麗な顔立ちに誤魔化されて肝心なことを忘れていた。
頭のいいこなんだ。
姫様は。

部屋の電話が鳴り、フロントから来客を告げられた。
午後10時をまわったあたり。
部屋にオタが入ってきたとき、ぼくは床に座りこんで鼻水を垂らしていた。
拭き取る気力もなかった。
「面倒かけやがって」
オタは入ってくるなりそう言った。
でも言葉ほど刺は感じられなかった。
ぼくはわけが分からずにオタにごめんと、なんども謝った。
オタは外に出るのが嫌いなんだ。
ところがここまではるばるやって来てくれた。ぼくのために。
オタは車を持っているヒキだ。
廃車寸前の四駆。
ぼくはその助手席に収まって鼻水を垂らし続けた。
車がウインカーを点滅させてどこかの交差点を曲がったとき
オタはこう言った。
「前言撤回だ。おまえの嬢様はできがいい。
できのいい女はおまえにはもったいない。
だからもう手を出すな。
ホテルの精算も済んでた。
送られて来たメールは丁寧で簡潔で、二重敬語もなかった。」
だからきれいさっぱり忘れろと言った。
おまえの手にはおえない、と言った。
それから、ぼくは泣き出した。声に出して。
ほんとにごめんな。オタ。
愛してるよ。心底。
車が自宅に到着する前にぼくは嘔吐してゲロった。
四駆のシートに派手にまき散らした。
ところがオタは窓を開けただけで、何も言わなかった。
ぼくの手に握られたピンクのクマ。
鼻に近づけるとかすかにミツコの香りがする。
姫様は、このクマがぼくを見張っているといった。
でも、それは違う。ぼくがこのクマなんだ。
君のところへ帰りたくて胸が張り裂けそうだ。
ぼくはいつだって一秒たりとも間隔を開けずに君のことを考えている。
君の胸こそがぼくのいるべき場所なんだ。





674 名前:70 ◆DyYEhjFjFU   sage 投稿日:04/10/04(月) 23:20:35
7日朝。
重く辛い。自室のベッドから這い出ることができたのは奇跡的だった。
またいつものように白いシャツに手をとおして、ネクタイを締める毎日のはじまり。
体温計を見ると39度ちょい。
最悪のスタートだ。
家でもめるのは勘弁だったから、何事もないように玄関を開け
見慣れた商店街を抜け、駅へと向かう。
すれちがう女子高生の群れ。姫様といくらも違わない年の女の子たち。
ほんのちょっと人生のネジの調整が狂っただけで
あの女子高生たちのようには笑うことのできなくなった姫様。
ぼくはポケットの小銭を自販機に投げ入れて、てきとうなボタンを小突く。
出てくるのはお決まりの、どれを選んでも大差ない味の缶コーヒー。
ぼくはひょんなことから、ふつうとは違う、スペシャルな女の子に出会った。
名はリカであり、恵子であり、姫様。
かつ、そのどれとも違うぼくの見知らぬ女性。
ときどき踏切の遮断機が閉じられ、車輪のついたでかい鉄の箱がいくつもとおり過ぎてゆく。
都心へ向かう人間専用コンテナ。
その毎日の旅路は合計すると、きっと月よりも遠い。
ぼくはその旅路の途中で姫様を見つけた。
姫様は線路の脇を徒歩ですすむ難民だった。
色褪せたぬいぐるみが唯一の連れ。
小石につまずいただけで、終わってしまいそうな危なげな旅。
その連れはいまぼくの黒皮の四角い鞄の中にいて、
持ち主の暖かい手のひらへ帰ることを切望している。
自分の居場所は姫様のごちゃごちゃのバッグの中だと確信している。
昨夜、忽然と消えていなくなった姫様。
なんでぼくの手元にクマを残したんだろうな。
漠然とした考えが浮かんでは消えるけど、熱に溶けて頭からこぼれ落ちる。
そのうち電車がホームに滑りこんできて、ぼくは女子高生といっしょに押しこまれる。
軽量ステンレスとポリカーボネイトの無機質な筒。
その内側では、ぼくは自分のふりをしながら呼吸する別の何かだ。
ネクタイモードにきっちり合わせることができる自分を、ぼくは誇らしく思ってるけど
オタの冷ややかな視線を堂々と受け止めることができない。
ひょっとすると、憐れんでもらうのはぼくの方なのかもな。
変化を嫌って生きてきたぼく。
置き去りにされたとき、ぼくはクマを握ったまま泣くことしかできなかった。
あの夏の姫様のように。
あの冬、弟に置き去りにされた姫様のように。





675 名前:70 ◆DyYEhjFjFU   sage 投稿日:04/10/04(月) 23:21:26
出社して同僚と手のひらを合わせるようにして叩き合い
明けおめと挨拶して
デスクに座ってPCを起動する。
たった1週間ほど前にも、ぼくはここにいた。
あの日を大昔のように感じる。
たしか姫様からの営業メールが届いた日だった。
年末にひとつ面倒があり、晦日から日付が新年へと変わるまで
同僚達と粘ったその痕跡がTFTに表示される。
素晴らしい仕事ぶりじゃないか。
誰しも仕事の精密な歯車になることは難しい。その困難さの履歴だ、これは。
ぼくは指の先で更新されたドキュメントを追い
背後に立った背の高い男と含み笑いを交わした。
なんの問題もなかった。
ぼくらの努力は報われて、万事は順調。
そんなわけでぼくは帰ることに決めた。
なにがなんでも、すぐに電車に乗り、暖かい自室のベッドで眠ると決めた。
信頼できる同僚のアドレス宛に、そのいいわけを書いた短いメールを送信したときだったかな
ケータイが震えて、メールを受信した。

 >クマ返せ~
 >電話しなさいってメモしたでしょ

姫様からだった。
胸に生暖かい鼓動が一拍あって、それは鳥肌をともなって四肢の先まで広がった。
続けてもう一通。

 >ただいまデート美少女無料キャンペーン中!
 >1分以内にレスくれたヒロくんには、美少女添い寝の特典付き!
 >会いたいよ~。ヒロぉ

30秒ジャストでレスした。
会いたいとだけレスしてから、場所を追伸した。
美少女って微妙な表記には触れなかった。
フロッピィのこともあるし。





676 名前:70 ◆DyYEhjFjFU   sage 投稿日:04/10/04(月) 23:22:15
自宅最寄り駅のカフェ。
改札を通過する乗降客が見渡せる席に姫様はいた。
ぎこちなく手を振るぼく。
彼女は急いでやって来て、ぼくの額に手を当てると困ったような顔をした。
熱があるね。ぜんぜんよくなってない。と言った。
彼女はスーパーに寄ってから行くと言い、タクを捕まえてぼくを押しこんだ。
風邪もここまでひどいと、歩くことさえつらい。
彼女はその日、フロッピィのことはひと言も口にしなかった。
ぼくはというと、気まずさを感じながらもやはり口にはできなかった。
そうしたとたん、彼女の触れてはいけない何かが溢れる気がしたからだ。
ぼくの知らない何か。だけどとてつもなく厄介だということは、なんとなく分かった。
彼女自身、おとぎ話の最初の滑りだしをどうやって扱うか
もてあましているようにも見えたからだ。
どうしたことか罪の意識はあまり感じられなかった。
もしかすると、ぼくは彼女の口から事の真相の一部始終を
聴きたいと考えているのかもしれなかった。
目黒で過ごした夜の底に転がった、なめらかな彼女の背中。
ぼくはバッグの中身から逃げるように、彼女の細くて華奢な腕を求めた。
あの夜からぼくはほんとうは知っていた。うすうす勘づいていた。
あの中身はぼくには重すぎるんだってこと。
そして彼女にとっても。
でも、ぼくはそいつをブートしてしまった。
どこかでカチリと音がして、不可視のサーボモータが静かに作動をはじめ、長い夜を巻き取ってゆく。
もちろん停止スイッチなんてない。
夜が巻き取られて消えてなくなってしまうまで機械の動作は続く。
そのときぼくはどこで何をやってるんだろうな。
少なくとも姫様はぼくの側にはいない気がした。
頭が痛かった。熱はひどくなる一方だった。
タクが見覚えのある郊外型ショッピングモールの入り口で小さく旋回して震えて止まる。
姫様はぼくのためにレモンと蜂蜜と
それから何か細々とした雑貨を紙袋に詰めて戻ってきた。
それからショートケーキの小箱。
この前手ぶらだったから。と彼女は言った。
ぼくは鞄からクマを取りだして両手で支え、ぺこりとお辞儀させた。
彼女の気遣いには、ちゃんとお礼しなきゃいけない。
彼女はクマの頭を見て笑った。
新しい帽子。ペプシのキャップ。
クマはちょっとした帽子コレクターになりつつある。

今日書いてるときに流れていた曲
シャルロットマーティン/Charlotte Martin 「on your shore」




751 名前:70 ◆DyYEhjFjFU   sage 投稿日:04/10/06(水) 00:08:39
タクが玄関前に横づけして止まると
母が待ちかまえていたように玄関から出てきた。
まるでぼくの帰宅を知ってたみたいだ。
なんでだろう?
たぶん不思議そうな顔してたんだろう。
ヒロのお母さんに電話で連絡しておいた。と彼女は言った。
二度も突然やって来るわけにはいかないんだし。
お互い様でしょ。と言って彼女はつくったような無表情になった。
彼女の顔から笑顔が消えるとひどく冷たく見える。
彼女はぼくが見たフロッピィのことをほのめかした。
ヒロのシステム手帳とケータイの中身ををすべて拝見しました。
ヒロの住所と会社の住所。太田君の住所と、その他すべてのアドレス。
重要なところはぜんぶわたしのメモリに転載済みなんだから。
まぢですか。
すると、ぼくのお気に入りのパンチラサイトもばれたんだろうか。
ってことは、ほんとは制服ミニスカ好きってこともばれたんだろうか。
飲んでるときに教えてもらい、たしかURLを手書きで1ページに大きく書いたはずだ。
彼女ならURLを一度開いてみるくらいのことはやったかもしれない。
それからオタ。ごめんよ。おまえの圧縮前の名まで知られてしまった。
ぼくは叱られた子供みたいに、シートで小さくなるしかなかった。
クマを握ったままなのでよけい間抜けに見えたはずだ。
母の小言がぼくをとらえる前に、2階自室へ急いだ。
姫様も心得てて、母の注意を自分に集め、いつの間にか台所へとふたりで消えてしまった。
シャツを脱ぎ捨て、ネクタイを放り投げ、ユニクロのスウェットに着替える。
カーテンを開けると、灰色のたくさんの雲に反射した光が部屋の中に溢れた。
よく晴れた日の日射しは部屋に暗い影をつくる。
曇った日のほうが部屋の中は明るい。
均一にまわった光の中では、ぼくの部屋はあまりにもふつーに見えた。
なんの面白みもない、個性の欠片すらない仕事に忙しい独身男の部屋。
やたらと山積みになってる音楽CDも、沢山の雑誌も
音楽に造詣深いっていうよりは刹那的な趣味。
むしろオタクの嫌な臭いが漂ってきそうに見える。
ベッドに潜りこむと、ぼくは落ちるように眠った。
眠りに落ちながら、階下で姫様の笑う声を聞いた。
細くて高いのにちっともうるさくない。子守歌には最適の音域。
その子守歌には間違いなく、
ぼくを包みこんで落ち着かせてくれる魔法のような力があった。
眠りの導入をうながしてくれる、日なたの匂いにも似た清潔な安心感があった。





752 名前:70 ◆DyYEhjFjFU   sage 投稿日:04/10/06(水) 00:09:15
汗をかいていた。
夕食を運んできてくれた彼女の気配で目覚めたとき
布団の中はもう病人の匂いに湿っていた。
彼女はぼくの胸に、冷たいひんやりとした指先を置き
「ヒロかわいそう」と言った。
「ごめんね。今夜はずっといっしょにいてあげるね」と言った。
ごめんね、と謝るのは横須賀の夜のことかな、と思った。
そう聞いたとき、ぼくは彼女が横須賀を訪れたことを
やっぱりちっとも後悔してなくて、満足しているんだと確信した。
だからここにいるよ。
ヒロのそばにいるよ。
そんな意味かなと思った。
本意がつかめず、いぶかって姫様をみつめると、自然に目が合った。
優しげなのになんとなく怒ってる感じもする、
カラコンでもないのに、うっすらとブラウンの混じった大きい瞳。
ぼくの知らない風景をたくさん映してきたんだろうな。
渋谷の町はずれのドラム缶と焚き火に燃えあがる、いろんな欲望の光彩。
虹彩に刻まれた残酷な風景。閉じることもかなわなかった。
姫様はそのぜんぶを受け止めるには若すぎたんだと思う。
すすり泣きと落胆。
そうやっていくつもの晩を過ごしてきたんだろうな。
いまでも帰る家すらない。
姫様はいつだって、家には帰りたくないと言った。
それを実行に移すために若い女の子がとれる選択肢は
たぶん、いくつもない。
姫様の瞳の奥に眠る風景。
ネオンサインと、その明滅に沈む渋谷の街。
でも、よく考えてみろ。とぼくは自分に言った。
ぼくにしたところで、それは同じなんだ。
ぼくだけが特別じゃないんだ。
ぼくは金を支払い、気の済むまで
彼女を渋谷の夜の中に縛りつけようとしている。





753 名前:70 ◆DyYEhjFjFU   sage 投稿日:04/10/06(水) 00:09:54
プラスチックの白いスプーンが
やけに子供っぽく見えて
姫様がそれを手にしたとき、ぼくは自分で食べる。と言った。
照れくさかった。
起きるのは面倒だったし、正直食欲はまったくなかった。
でも姫様がわざわざ作ってくれた雑炊なら、食べる。
無理しても残さず食べる。
いつの間にかストーブに火が入れられていて、部屋は暖かだった。
彼女はぼくが食べる横で
どうやって作ったかとか、ちょっとした工夫があるとか
母といろいろ話しをしたとか、とりとめのない話をした。
そのうち、興味が部屋に積まれたCDに向けられ
そのうちの一枚を借りてってもいいかと訊いた。
ぼくは、ただうんうんとだけ頷いた。
言葉を口にしようとすると咳になる。それに体が重かった。
それから雑炊が美味くて、食べてるうちに食欲が湧いてきたほどで
そっちに集中してたせいもある。ぼくはサラダまできっちり平らげた。
ごちそうさま。手を合わせると彼女は喜んでくれた。
ベッドに横になって、目を閉じる。
彼女の指先を唇に感じた。
形のいいネイルのさきっちょが、ぼくの口の上をかすめて踊る。
彼女は何かの歌を歌っていた。かすれるほど小さい声で。
そして歌いながらぼくにこう訊いた。
「どこまで分かったの?」
フロッピィのことだと思った。すぐにそうだと分かった。
ぼくは何も言わなかった。実際理解できてることなんてひとつもない。
だから答えることができなかった。
「ヒロ。お願いだから、ヒロからは見えないわたしを追いかけないでね。
そこで立ち止まってね。もうじき終わるから。もうちょっとでぜんぶ終わるから」
彼女はそう言って、ぼくのお腹のあたりに頭を重ねた。
もうちょっとですべて終わる、と言った。
間違いなくそう言った。
ぼくは目を閉じたまま、何も答えなかった。
やっぱり重すぎる。
ほらみたことか、とオタの叫ぶ声が聞こえる。
あの夜はどのくらい巻き取られたんだろう。
ぼくらにはあとどのくらいの時間が残されてるんだろう。
何も答えないまま、ぼくは眠りの中へ逃げこんだ。
彼女の声。
それは細くて子守歌にはぴったりのやわらかさ。
ここにいるよ。
ヒロのそばにいるよ。





ぼくとオタとお姫様の物語 二夜
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7 名前:70 ◆DyYEhjFjFU  sage 投稿日:04/10/07(木) 14:35:07
8日朝。
子供の頃からずっと通いつけの主治医のいる病院。
彼女は待合室の平べったい長椅子に座っている。
茶色で合成皮革の長椅子はところどころに穴があいていて
ガムテープで補強されている。
何度となく見てきたこの茶色の長椅子に座っていると、ほんとうに気が滅入る。
たぶん病院の陰鬱なイメージが刷りこまれてるんだろう。
主治医は高齢で真っ白い髭が自慢の、子供に優しい爺さんだった。
安静に。これが処方箋だった。
ぼくはこの言葉を受けとるためにここに来る。安静に。
この病院で2種類以上の薬を処方されることはまずなかった。
だからぼくはこの爺さんが気に入っている。
飲んでもいいし、飲まなくてもいい。爺さんはそう言ってるみたいだった。
問診と触診が終わって、シャツに手を通してると爺さんはぼくにこう言った。
「今日はあのお嬢さんといっしょにいなさい。そばにいて看病してもらいなさい」
ぼくが笑いながら、なぜです? と訪ねると爺さんはあっさりこう言ってのけた。
若い男の風邪の特効薬は、若い女性だ。
からかうようにぼくに言って、それがよほど可笑しかったのか声に出して笑った。
ぼくは小さかった頃、この爺さんによく釣りに連れていってもらった。
ペンキの剥げた小型トラックの荷台に乗って、海岸を目指すのが好きだった。
弟は釣りに熱中してたけど、
ぼくは荷台に揺られる道中そのものが好きだった。
海岸線道路のコントラストの効いた強い日射し。蝉の声。
ぼくの幼少の頃は平穏そのもの。
どこにいっても安全がもれなく無料でついてくる。
大人たちがゆるく張った監視の目から外に出ることのない毎日。
でも姫様はそうじゃなかった。
風邪に倒れたとき、姫様はただ寝てるしかできなかったんじゃないだろうか。
ひょっとするとあのやしろのどこかに、ひっくり返って
ただじっと天井の絵を眺めているしかできなかったんじゃないだろうか。
あの晩、彼女は目を閉じ、欠落した絵を克明に復元した。
ちいさな唇から漏れた言葉が、闇の中で結晶化して、美しかった絵の細部を浮かびあがらせた。
その記憶の正確さは、長いことあの絵だけを見て過ごした証拠だ。
小さな女の子が、あのカビ臭い絵をそっくり記憶してしまうほどの動機ってなんだ?
いや、動機なんてたぶんない。不自然すぎる。
そういう状態に追いこまれたんだ。
彼女はただうずくまって、熱が去るのをじっと待っていた。
目を開けば天井の絵が視界いっぱいに広がる。
そのとき弟は、彼女の側にいて額に浮いた汗を拭ってあげたんだろうか。





8 名前:70 ◆DyYEhjFjFU  sage 投稿日:04/10/07(木) 14:35:45
待合室に戻ると彼女の背中が見えた。
長椅子にちょこんと座ってバッグをかき回していた。
ふり返る彼女。
おかえり。よかったね、何事もなくて。
そう言った彼女の手には一枚のフロッピィが握られていた。
プラスチックの透明なケースといっしょに。
彼女は別に悪びれた様子もなく、ぼくの目に黒い四角の板をちらつかせた。
頭の近くでくるくると人差し指を巻く仕草。
その指先には、彼女の細い髪が巻き取られていた。一本だけ。
彼女はフロッピィの磁気ディスクをガードする金属のシャッターをカチャと開いて
いま引き抜いたばかりの自分の髪をシャッターのスリットに通し
くるっとディスク本体に巻きつけた。
ライターを取りだしてさっと炙る。
ぼくは笑った。
そういうことだったのか。
用心深い姫様。
フロッピィには封がほどこされてた。
あの目黒のホテルの暗がりの中では、とてもじゃないけど見えなかった。
いや、ほかのどこの場所でだって気づかなかった。
べつにヒロを疑ったわけじゃないんだよ、と彼女は言った。
このフロッピィは他にも数人の手を過ぎていくから。
フロッピィの封は脆い。慎重に扱わないとすぐにほどけて落ちる。
ブートなんてしようものなら誰かが中身を閲覧したとすぐにわかる。
ファイルの制作者は仲間すら信用していないってことか。
彼女は慎重にフロッピィを透明ケースに収めた。
今日はお家で寝てようね、と彼女は言った。
そのとき、ぼくはとうとう我慢ができなくなって彼女の手を握って座りこんだ。
どうしても訊いておきたかった。
訊いておかなくちゃいけないと思った。
いまはいい。彼女が目の前にいるから。
目の前にいれば安心感もある。
でも彼女のいない夜はどうだ?
ぼくはベッドの中でまんじりともできずに過ごすことになる。
きっとそうなる。そんなの絶対勘弁だ。

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