337 名前:70 ◆DyYEhjFjFU 投稿日:04/09/08(水) 05:12
姫様がセクシーな下着姿で眠りについたあと、ケータイに着信があった。
送り手はオタで、メッセージはPCで確認してほしいとのこと。
早いな。すごい士気の高さだ。
PCを起動してメールを確認すると、数時間前に送付したファイルの解説がもう届いてた。
>ヒロくん。確信とまではいかないけど、今回の中身は当りだ。
>いままで意味のなかったジグソーパズルの断片に、収まるべき位置を指示することができるかもしれない。
>最初にまず確認しておきたいことがある。
>どうにかして、嬢様の本名を調べることができないかな。
>おまえは嫌がるかもしれないけど、彼女のバッグをひっくり返してまず免許証を調べることをすすめる。
>彼女の本名は、佐藤恵子。19歳。国内での運転免許取得済み。
>その若さでアジアのほとんどの国と、ヨーロッパの数ヶ所を旅したことがある。
>広東語を少し話せる。
>それからジュネーブ商業銀行に口座を持ってて預金額は日本円で2800万円。
>さらに詳しい説明は、彼女の免許証の確認のあとで。
>もちろんおまえには、彼女のバッグに触れないという選択肢だってある。
>おれにでも理解できる。そのくらいは。
>ここから先は彼女の本物のプライバシーだ。おまえは立ち入るべきじゃない。
>いづれにしても連絡をくれ。急いで。寝ないで待ってる。
大袈裟なことになっちまったな。
ぼくが知りたかったことはそんなことじゃなかったのに。
彼女のフロッピィの中身が分かればそれでよかったんだ。
こんな大事の予定じゃなかったんだ。
ぼくはオタに返信した。
>もう充分だよ。ありがとうオタ。ここで降りる。
そして、送信ボタンを押したあと、ぼくは彼女のバッグをひっくり返した。
説明し難い衝動に駆られて。
ぼくは確かに彼女のフロッピィを盗み見た。でもそれはおそらくは解明できない難しい何か、で終わる予定だった。
彼女はなにかよくないこと、をやってるようだったし、
あるいはぼくの助力を必要としているのかもしれない、という勝手な思いこみもあった。
しかし、彼女の財布を開いてみること、それは彼女のプライバシーに直接触れる行為だ。
そんなことはしたくなかった。するつもりもなかった。
でも、ぼくはそうした。
何枚かのクレジットカードに紛れて、免許証は見つかった。
見覚えのある端正な顔立ち。
名前を確認すると、佐藤恵子と書かれてあった。
生年月日から彼女の年齢が19歳だとわかった。
>オタ。彼女は、佐藤恵子。間違いない。免許証を確認した。
>ファイルを送信してほしい。説明が聞きたい。
346 名前:70 ◆DyYEhjFjFU 投稿日:04/09/08(水) 22:23
オタは待っていてくれた。
ぼくからの連絡に待機してたかのようなスピードでレスが返ってきた。
1通ごとにアップしてそのまま送ってくれてるんだろう。
紙芝居のように、ファイルがひとつづつ届き、ぼくの指先で開かれる。
>いきなり戸惑うかもしれないけど
>その免許証は偽モノ。つまり偽造。
>嬢様は免許取得後1年以内に免停を喰らってる。
>その後再発行された形跡はない。理由はわからない。
>これを調べるために、やばいことをやった。内容は説明しないけど。
>蛇の道はheavy。その手の情報をすぐに洗ってくれるやつがいるってことだけ。
>金もかかった。請求なんて野暮なことは言わない。
>しかしだ。スニーカをいますぐ梱包しておれに送るくらいのことをしても罰はあたらないじゃないかな。
>ああ、それから彼女の名前だけは、ほんものだ。
>だから確認する必要があった。彼女の免許証の名はつまりパスワードだったってわけだ。
>19歳ってのも嘘。名前以外の情報はその後誰かが更新してるらしい。
>黙ってて悪かった。
>でもさ、知ってたらおまえは間違いなく彼女のバッグを調べたと思うんだ。
>正直そうはしてほしくなかった。最初におまえが「降りる」とレスくれたとき
>心底ほっとしたんだけどな。でもおまえはやはりやった。残念だったよ。
免許証も偽者か。驚いた。
とはいえオタのレスにあった「蛇の道はheavy」の一行を見逃すほど動揺はしてなかった。
その言い回しはいまいちだ。できれば止めたほうがいい。
347 名前:70 ◆DyYEhjFjFU 投稿日:04/09/08(水) 22:25
2通目。
>まずgifファイル。
>この日本人の男の子が手に持ってるウォータガンに注目。
>登録商標が刻印されてるはずの場所に、例の不明な数字。
>見てもらえばわかるけど、前回の3枚よりはかなり程度がいい。
>一見したくらいじゃ、そうとは分からない。
>疑ってはじめてそうだとわかるレベル。プロっぽい。
写真の男の子は日本人だった。
なぜそう断定できたかというと、頭に被った紅白のキャップは
幼稚園、小学校で、ぼくが被ってたそれと同じだったから。
リバーシブルで、運動会のとき白組でも赤組にでもなれる。
男の子のキャップは、サイズが合っていなくて、極端に大きかった。
垂れ下がったひさしが唇以外の顔の部品を隠している。
男の子はレンズを見ようとしたんじゃないかな。
そうするために、顔を上げようとした。でもシャッターのほうが僅かに早く作動したんだ。
君の弟なのかな。この子が。
5歳くらい。ひどく痩せている。
手に持った水鉄砲は大きくてアメリカ製で新品で、男の子がそれを大切にしている様がわかる。
大切なものは両手で抱くようにして持つんだ。
ちょうどこの写真の子のように。
他の誰かに持っていかれないように。
348 名前:70 ◆DyYEhjFjFU 投稿日:04/09/08(水) 22:27
3通目
>エクセルファイル。
>嬢様は偽造旅券を使ってる。
>4年前に日本政府から発行された。ように見えるけど、実は1月前に新宿で偽造された。
>あるいは新宿で誰かに手渡された。
>その製作費用と必要な素材のリスト。
>驚くほど高いな。きっとほんものそっくりなんだろうな。効果まで。
>一度見てみたいよ。嬢様のそのパスポート。
>それからその他こまごまと、いろんな偽者の書類。預金とそのリスト。
>余談だけど、嬢様は過去にも何度か偽名でパスポートを作ってる。違う場所で。
>ご丁寧にその住所も載ってる。
>見ても仕方ないだろうけど、一応送り返した。
>テキストエディタ。
>これに関しては推測でしか言えない。前回のと同じだ。
>誰かが誰かに宛てた手紙。メールのコピー。
>おまえだって推理ドラマを見ながら、推理したことくらいあるだろう。
>そんな程度の説得力しかないけど
>嬢様は近いうちにインドへ旅行の予定。場所はデリー。
>もし嬢様が1週間近く消えることがあったら、おれも名探偵の仲間入りってわけだ。
>以上。
>たぶんこれらは謎とかそんな複雑なことじゃなくて
>ファイル製作者はやるべきとこを当たりまえのように自然にやったんだ。
>覗き見してるおれたちが、よけいなことを考えすぎてしまった。
>美人の嬢様のせいで、なにか特別のことように扱っちまった。
>他になにかあれば送ってくれ。
>もう、そんなに難しいことじゃないと思う。
349 名前:70 ◆DyYEhjFjFU 投稿日:04/09/08(水) 22:29
ぼくはときどき君が現実には存在しないんじゃないかと錯覚することがある。
君が話してくれた町も公園も絶対に訪れることのできない架空の地。
ほんとうにあるのかどうかもあやしい。
いまだってそうなのかもしれない。
ぼくは君のことは何も知らない。
名前さえ。
オタは間違いないと言ったけど、それは確認のプロセスでのことだ。
誰も君のほんとうの名を知りえない。
君はぼくのすぐ手の届くところで眠っている。
柔らかい前髪がおでこのとこでいっせいにカーブして
ちいさな背中へと流れる髪の本流へと消えてる。
それは見てとれる。
ぼくはそれに触れることができる。そうしようと思えば、いつでも。
でも君の額の中にある脳は、まったく違う夢を見てるのかもな。
それこそぼくが永遠に知ることのない、異国の地、
そこで過去に起きたいろんな出来事と悪夢。
なあ、姫様。
君が目覚めたらどこへ行こう。
今日も何も考えないで、はしゃいで飲もう。
君が望めばどこか遠くを目指してもいい。
ぼくじゃ役不足なのは承知してるけど
それでも君が喜んでるとこがみたい。
君の笑ってる顔をしっかり覚えておきたいんだよ。
350 名前:70 ◆DyYEhjFjFU 投稿日:04/09/08(水) 23:04
オタからのメールにすべて目をとおして
ぼくはしばらく考えてから、もういちどオタにメールした。
貼付するファイルはない。
気まぐれかただの暇つぶしか
たいして重要じゃないことのために、ぼくらは大量の文字を使う。
ぼくとお前は友人なんだと、だからいいじゃないかと、
迷惑このうえないくだらない2バイトの羅列を突然送りつける。
オタは、たいていレスをくれた。
それがどんなくだらない内容でも。
そんな仲でも、1年に数えるくらいは、おたがい真面目で相手を思いやるメールが
届いたり届けられたりした。
これもそうなのだと思う。そんなときはどうしてもメールしたくて仕方ない。
>なあ、オタ。
>姫様はリッチなのに、なんでおれと遊んでるんだろうな。
>そうすることになんの意味があるんだろう。
たぶん思考力がひどく落ちこんでたんだと思う。
オタも察してくれてたのか、いちもの罵詈雑言はくっついてこなかった。
しかも素早いレス。
>嬢様の名を使ったからって、それが彼女のものだとは限らないだろう?
>逆におれが触ったファイルのすべてが、彼女に関係したことなのかどうかも証明できない。
>嬢様は譲様だよ。
>おれから見れば、まあ、美人はすべて妖精みたなものだけどさ。
>そこにいるのに手に取ることはかなわん。
>実在しないのといっしょだ。
>しかしおまえから見ればまた事情も違うだろう。
似たようなものさ。ぼくもオタも。
ぼくはひとりごちた。
358 名前:70 ◆DyYEhjFjFU 投稿日:04/09/10(金) 00:33
昼過ぎに目覚めた。
姫様といっしょにベッドの上でまるまって
2匹の猫みたいに寄り添い、窓を通過して差しこんでくる暖かい陽射しにくるまって
いつまでもだらだら眠り続けた。
先に起きたのはぼくのほうだった。
ベッドからすべるように落ち、一回転して走ってトイレへ。それからシャワーを浴びた。
頭はすっきり爽快。バスタオルで濡れた頭をごしごししながら、姫様を揺り起こす。
そのとき頭のなかでカチっと音がした。
ぼくの脳にモードが変更されたようなあからさまな変化があって
自分でもあらがうことのできない強い衝動が、体中に沸き起こった。
ふつうの男がそうやるように、ぼくは姫様を求めた。
彼女はちょっと驚いたような顔をした。抵抗はなかった。
優しく抱きとめられた気がする。
そのあとはよく覚えてない。
姫様がバスルームに消えたあと
ぼくは彼女のために何かしてあげたいと真面目に考えはじめた。
ぼくにしかしてあげれないような特別な何か。
できればあまり大袈裟じゃないほうがいい。
彼女がそうとは気づかない程度の何か。
359 名前:70 ◆DyYEhjFjFU 投稿日:04/09/10(金) 00:34
姫様は例によってちょっとした用事のため渋谷に戻ると言い
ぼくはゆっくり食事してから、彼女の後を追った。
待ち合わせは東京駅。
あのあとぼくは彼女にこう提案した。
バスルームから出てきた彼女をつかまえ、髪を乾かすとか化粧とか
そんなことをはじめる前に、彼女にぼくの提案を聞いてもらった。
ぼくは君が昔いた公園は遠いのかと尋ねた。
つまり、弟と過ごした、君にとっては特別な意味のあるあの場所。
彼女は最初、あそこへ行くことになにか意味があるとは思えない
とかなにかそんな意味合いのことを言ったように記憶している。
でも、そのすぐあとで、ぼくの嘘のない真剣な表情を見てとると
ありがとう。と言った。
ほんとうは何度もひとりで行こうと考えた、と彼女は言った。
あそこを訪れるのが怖かった。と。
ヒロがよければ、ぜひ行きたい。
彼女は最後に、わたしをそこへ連れて行ってほしいと言った。
東京駅はひろい。
いつ来てもそう思う。
規模だけなら新宿駅のほうが上な気がするけど
東京駅はやけに広くて、大きい気がする。
遠いどこかとどこかを結ぶ、その拠点として考えてしまうからだろうか。
まあ、たしかに新宿駅で感傷的な気分になったりはしないよな。
せいぜい気をつけることだ。
そんな気分はあまりいい結果を生まないことを、ぼくは経験則から知っている。
思い起こしてみると、説明のつかない奇怪な行動や
思わず赤面しそうな言動の元凶になってる場合が多い。
そんなわけで、ぼくは早くも芽生えた感傷的な気分を頭から追い出して
姫様がやってくるのを待った。
急がないと。
あまりゆっくりしてられるほど時間が残ってなかった。
戻ってくるのは深夜になるかもしれない。
360 名前:70 ◆DyYEhjFjFU 投稿日:04/09/10(金) 00:36
お互い迷ってしまわないように
東海道新幹線改札の前と指定しておいたのがよかった。
姫様が広いタイル張りのプラットホーム連絡通路を走ってくるのを
すぐに捕まえることができたから。
ふたりでとりあえずコーヒーを飲み
それから横須賀へと向かう電車ホームを目指した。
お互いあまり口をきかなかった。
姫様はぼくに寄り添うようにして、ぼくの腕をしっかりつかんで歩いた。
ぼくらが目指すのはかの地。
過去の時の中で永遠に凍りついて、絶対に溶け出すことのない場所。
彼女が過去にごっそり失った何かが、そこに散らばっているんだろうかと
考えてみるけど、それはたぶん現実的じゃない。
彼女はただそこを訪れることを望んでる。
自分の傷ついた気持ちがそこにある何かであがなえると、
本気で信じてるわけじゃないだろう。
単純に考えよう。
彼女は弟に会いたがってる。
だからぼくも同行する。
ぼくはウーロン茶と途中来るときに買ったベーコンサンドの包みを彼女に渡して
ホームに滑りこんできた電車に飛び乗り
彼女のために窓際の席を確保した。
ぼくは彼女がよく見えるようにと、対面の席に腰掛けたけど
彼女が小声で「手を握ってて」とささやいたので、彼女の隣に座った。
客はまばらだった。
ぼくはCDウォークマンのイヤリングみたいなスピーカのRを彼女に渡した。
バッハの無伴奏チェロソナタ。
気分じゃなかったら聴かなくていい。
でもさ、こういうときは気分が落ち着く。と姫様に勧めた。
電車がゆっくりと動きはじめると彼女はぼくの手をぎゅと握った。
頭をお互いにくっつけると、頭蓋骨が振動してボーンフォンみたく聴こえないかな。
ぼくの耳にあるのはL。
聴こえてきたのは小さな風の音だった。
車内を循環する空気の流れが、ぼくと姫様の頬をすり抜ける音だった。
539 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/01(金) 21:06:24
間違いなく忘れ去られてるだろうな。
と思ってたのでひっそりアップしとこうと考えてましたが。
レスがしっかりついてたのを読んで正直驚いてます。
驚くのと同時になんだか嬉しい気分でした。
わざわざ保守してくれた人もいたようで…ありがとう。
続きをはじめたいと思います。
その前にレスにくっついてた質問とかちょっと気になったことを先に。
このスレを最初に立てた1はまだいるのでしょうか?
途中からひっそりいい加減にてきとうに書き始めた頃は
まさかこんなにレスがつくようになるとは、ぼくだって想像してなかったので
実はちょっと気にしてたりします。
風俗嬢について2ちゃんらしい世間話を毎晩アップしたり読んだりすることを
楽しみにしてる人だっていると思うからです。
じゃあスレッドを自立したほうがいいかというと、ぼく自身そうは考えてはいません。
つまり、いままでのとおり風俗嬢について書き込む人がいて
そのあいだに埋没するみたいに、ぼくのくだらない文章の塊が挟まる。
ってふうにしたいのです。いままでと変わらないように。
理由は
ひとつには、スレを自立するような大袈裟なものじゃないってことと
ぼく自身このスレタイがとても気に入ってるからです。
70ウザイ!って人もいると思いますけど
できればこのまま続けたいのです。
ぼくを読書家だとか、そんなふうに考えてくれっちゃったりした人達。残念でした。
ぼくは普段、小説とか文学なんてものからはほど遠い人間です。
村上龍も春樹も読んだことありません。
ぼくが書いてアップし続けてる文章は、およそ小説なんて呼べるものじゃないです。
時間軸に沿って話を、ただ「説明」しているだけだからです。
もちろんここには主人公の視点となるべきテーマもありません。
夜、就寝する前の、「すべての喪のためのデタラメな子守歌」と受けとめていただけると助かります。w
お互い喪同士。脛の傷の痛みは分かってますってば。
これから書きます。
が、残務あり。アップの時間は約束できそうにありません。
548 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/02(土) 01:53:50
横浜を過ぎたあたりから電車は闇の中へ。
小さく区切られた田んぼに突き刺さった地方企業の看板やガソリンスタンドのオレンジ色のライトが
窓ガラスに反射した彼女の顔に重なって、視界の隅へと流れて消えてゆく。
まばらに見える民家の灯りはどこか淋しくて
たぶん彼女も同じように感じてたんじゃないかな。
ぼくの手を握る細くて長い指が
彼女の気分にリンクして弱く開かれたり強く閉じられたりした。
寒くないかと訊くと、彼女は平気と答えてから
バッグをごそごそかき回し、それからピンクのクマをひっぱり出して窓ガラスに立てかけた。
クマにも外が見えるように、頭のジンジャエルのキャップを少しひねって自立するように置いた。
クマは足が短くて、胴体が異様に長い。
そのバランスの悪さが愛らしくもあって見ていると切なくなってきた。
ずっと昔、このクマはこの風景を見たことがあると彼女は言った。
ただ風景の流れは今とは逆で、東京駅へむかう電車だった。
そのとき、クマのご主人様はもうこの世界にはいなかったんだと言った。
ぼくはヘッドフォンのLを外して彼女にかけてやり、ボリュームを少し大きくした。
悲しい気分とかつらい気分を、音楽は押し流す力がある。
即効性はないかもしれないけど音楽には傷を癒す力がある。
ぼくはそう信じて疑わないタイプだ。
「ウ ル サ ク ナ イ カ ナ?」
口パクと身振りで彼女に聞いてみた。
たぶんボリュームサイズからぼくの声は聞こえない。
彼女はすぐに理解して「ヘ イ キ」と答えてくれた。
ぼくの耳から音楽がなくなって、電車の規則正しい振動音だけになった。
乗客の話し声もしない。
電車は横須賀を目指していて、それはそんなに遠い場所ではないのに
ぼくには長い時間に感じられた。
それは彼女の痛みがぼくに伝染したせいだった。
彼女のぼくの手を握るその爪が白くなっているせいだった。
549 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/02(土) 01:56:25
横須賀駅に到着すると
ぼくはキオスクの自販機に走った。
ミネラルウォータとコーラを買い
コーラのキャップを外してミネラルウォータで洗い
残りをボトルごとゴミ箱に捨てた。
クマの新しい帽子だ。
姫様の口元にかすかに笑みが戻ってきて
そいつが消えてしまわないうちに、タクを捕まえた。
話では車で5分くらいの距離らしいから、一気にあの場所を目指そうと考えた。
タクの運転手は陽気な中年で
駅前の美味いラーメン屋とか安く飲める居酒屋の話をひたすら喋り続けてくれた。
願ってもないことだった。
余計なことを考えなくて済む。
ぼくは帰りにそこへ寄っていこうと彼女に言い、運転手の喋りにいちいち相槌をうち
たいして面白くもない冗談に声を出して笑った。
運転手がほんとうにここでいいのか?と言った場所は確かに公園だったけど
想像していた雰囲気とは随分違っていた。
そこは公園ではなくて神社だった。
まわりの空き地を盛り土で円形に持ち上げた感じの神社には
滑り台とブランコと模型のような背の低い木が数本あるだけだった。
鳥居は朽ちて色がほぼなくなっていたし、ひどいことに傾いていつ倒れてもおかしくない状態。
滑り台に砂場はなく、ブランコにはブランコが下がってなかった。
「ここでいいのかな?」
と訊いた。
彼女はこくりと頷いた。
ぼくは彼女に手を引かれて歩いた。
足下は暗くて木ぎれとかプラスチックのゴミが散乱しているようで
ここが人の記憶から置き去りにされている場所なんだとわかった。
明かりも音もなかった。
澄んだ空気のせいで星と月がやけにくっきりと見える。
はき出した息が白い雲のように月に重なって、姫様は流れる影。
ずっとずっと長いこと、彼女は渋谷の夜の闇の中で出口を失って苦しんでた。
だからここにある暗がりなんてちっとも怖がってない。
彼女の気配まで闇に溶けこんでしまったとき、ぼくはなぜかちょっと安心した気分になった。
上手くいえないけど、彼女がここへ戻ってきたことを後悔してるようには思えなかったからかもしれない。
彼女が溶けこんだ暗がりを、ぼくも怖いとは感じなかったからかもしれない。
551 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/02(土) 01:58:14
苔に覆われてしまった水道の蛇口。
風が砂をどこかへ持ち去ったあとに残った砂場だった場所の窪み。
首のなくなった狛犬。
高さの半分から下のすべての樹皮を失った樹。
そのぜんぶに思い出があると彼女は言った。
缶蹴りをやるときの陣地があの樹の生えてる場所で、
子供達がつかまって回転するものだから、あの樹は樹皮を失ってしまった。
でも、こうやってまだ生きてるんだと、春にはしっかり芽吹くための準備をしているんだと
感心したように言った。
あの夏。
彼女の弟もここで鬼ごっこやら、缶蹴りをやって走りまわったんだろうな。
彼女だってきっと同じことをやったんだ。
ぼくらはお互いの距離を狭めるでも拡げるでもなく
闇の中で等間隔を守りながら狭い境内を彷徨った。
やしろの崩壊もひどいものだった。
子供達の遊び場所としての機能もとっくに失われていて
いまでは幽霊の噂を提供するくらいしか使い道がなさそうに見えた。
歩くと不気味な音を立てる床板に気をとられていたけど
何かのはずみで見上げた天井はちょっとした驚きだった。
見事に彩色された古い絵の数々。
そのほとんどは間仕切りの格子だけ残して滅茶滅茶に破壊されている。
でも、それが新ピカだった頃の派手さは容易に想像できた。
欠落した部分は、目を閉じた彼女の唇が魔法のように正確に復元してくれた。
黒い牛。
神官と黒い袈裟のたくさんの僧侶。
たくさんの雲。
荒れる海面。
龍。
そして太陽。
彼女は太陽が描かれた天井板の一枚を指さして、はあっと白い息を吐き出した。
あの太陽。
朱に塗られた一枚の板。
ぼくは彼女の顔を見た。頬につたって流れるきらきら光る水滴を見た。
きっと何かを思い出したんだろう。
あの板には何かがあるんだろう。
ぼくはあちこちに散らばるガラクタとゴミの山の中から、物干し竿を探しだしてきて
力任せにその天井板を打ち抜いた。
大量の埃といっしょに、あっさりと板はやしろの床に落下した。
古いデザインの缶コーヒーの空き缶といっしょに。
彼女はその空き缶を拾い、指先でつまんでくるくるまわして確認したあと
ゆっくりと声を立てずに泣きはじめた。
「やっと帰ってこれたよ。ヒロ」
彼女はそう呟いたけど、ヒロがぼくのことなのか弟のことなのかは分からなかった。
彼女はぼくの手を握って静かに震えるように細かく、白い息を吐き続けた。
553 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/02(土) 01:59:46
缶コーヒーは姫様が弟へ、小遣いのぜんぶを使って買ってあげた
誕生日のプレゼントだった。
ところが姫様も途中で飲みたくなって、結局は半分づつ飲むことになったのだとか。
弟は空になった缶をやしろの天井に放りあげ、ゴミ箱には捨てなかった。
弟がなぜ必死になって天井へ投げようとしてたのか当時は不思議だったけど
いまになって考えてみると、なんとなく分からなくもない。と彼女は言った。
天井を壊すからと注意したにもかかわらず弟は缶を投げ続けた。
聞き分けのよかったはずの弟が投げ上げた缶は、外れた板と板の隙間から天井へ突き抜け
太陽の絵に乗っかってとまった。
もう充分。と彼女は言った。
帰ろう。東京へ。
ぼくらは県道を横須賀駅目指して、てくてく歩いた。
都心を離れると、冬の風はとても冷たい。
ゆるくひっかけた彼女の指だけに温度があった。
この土地を訪れてみると、今度は東京のあのホテルの部屋が存在感を失う。
おかしなものだと思う。
ぼくの斜め後ろを歩いてついてくる彼女。
うつむきかげんで、左手にはクマをしっかり握りしめている。
長い髪が突風にあおられて右へ左へ激しく揺れる。
空き缶はちゃんと持ったのかな。
鼻水がとまらないね。
ホテルに戻ったらヒーターを最強にセットして眠ろうな。
その前に何か食べなくちゃな。
頭をフル回転させてみたけど、ろくな考えが浮かばなかった。
ぼくは彼女になにもしてあげることができない。
今夜だからこそ彼女の笑顔が見たくなったのに、ぼくの頭は空回りするだけだった。
なんとかして彼女の笑顔を見なくちゃいけない。
そうしないと、ぼくはまた姫様を求めてしまうだろう。
あのやしろの天井画のように滅茶滅茶に壊してやりたくなるだろう。
なのに、ぼくの頭は空回りするだけだった。
ずっとずっと空回りするだけだった。
586 名前:70 ◆DyYEhjFjFU sage 投稿日:04/10/03(日) 01:22:55
横須賀駅は利用者の多い割にこぢんまりしていてぼろい。
日が落ちてしまうと商店街に混ざって、はじめて訪れたものには駅らしく見えなかったりする。
ぼくらは駅間近の海岸沿い直線コースのどこかで立ち止まり
潮の匂いを嗅ぎ、汚れた海面に反射する光の束をじっと眺めた。
この頃には寒さが直接皮膚にまで浸入していて、コートの内側にさえ温度がないように感じられた。
彼女の手も顔も海からの風に撫でられて真っ白。頬の赤みもない。
ぼくは彼女の指先をなんどもこすって摩擦で熱を戻そうとしたけど効果はなかった。
ポケットから指を出し、外気に触れたとたん感覚がなくなる。
彼女の頬を触っても自分の指先に触感がなく、
頬は冷凍されたあと常温で自然解凍された肉みたいな不自然な柔らかさだった。
「夜景きれいだね」と彼女が言った。「あの光にジャンプしたらすぐ死ねるかな」
「1分で死ねるかもね。充分に冷えてるし、あまり苦しまないでいいかもしれない」
彼女が本気で海へダイブするとは思えなかった。
ひどく落ちこんでいて、感傷的になってるのはわかるけど
そんな思い詰めた雰囲気でもなかった。
彼女がジャンプするならいままで何年もそのチャンスはあったはずだ。
ぼくは彼女の気が済むまで付き合った。
彼女の足が駅へむかって動き出すまで長いことそこに佇んだ。
「ねえ。ヒロ」
「ん?」とぼく。
「もしいっしょに死んでって言ったら、どうする?」
ぼくは笑った。
「死なないよ。絶対に。ぼくはお姫様を東京へ連れて帰る。あのホテルで暖かいコーヒーを二人で飲みたいから」
彼女はようやく歩きはじめた。
クマを海に向かって突きだし、ちっちゃなフェルトの腕をつまんで海にバイバイさせた。
そのときぼくは、ここへ来る途中利用したタクの運転手を思い出した。
あのおっさんの話だと、この直線コースの先にたしかラーメン屋があるはずだ。
美味いかどうかなんて、この際どうでもよかった。
ラーメンのスープはどんな不味い店で食べたって熱いはずだ。
道の先に横須賀駅が見え、その手前に記憶してた店の名をみつけたとき、彼女も黙ってぼくを見つめた。
ぼくらは言葉を交わさないまま店のドア目指して早足で歩いた。
意外にもラーメンは美味かった。
彼女は熱いスープをふぅふぅやりながら、鼻をすすり
「ありがとう今夜」と言ってから、またぐずぐず泣きはじめた。